コーヒーと原爆

2008年2月 4日

前にmixiに「コーヒーに砂糖、ミルクを入れない人に好感が持てないでいる。」って書いたことがあって、たまに「あれは何か意味あるの?」って訊かれたことがあった。
反感を買うので基本的には「いやー、特にないですよ。」なんて言ってたけど、もちろんあります。

まずコーヒーなんてそのままじゃ苦いじゃないっすか。
ここで「何子供みたいなこと言ってんだよ」って思った方、あなたがオレの敵。
「苦いコーヒーを飲む=大人」っていう大人気ない公式をどこかから借りてきて、実行していても何の疑問も感じない、そういうのに同感できない。
荒い言い方をすると「飼い馴らされるな」ってこと。

誰が言い出したんだろう。
コーヒーの本場イタリアでは、ブラックで飲んでる人なんていないのに。
オレも実家ではブラックで育ったけど、そういう誰かが決めた「セオリー」みたいなものってある。
たとえばピアノ。
誰も弾かないのになんでどこのうちにもあるんだ?
どこかにそういう教科書でもあるんかな?
「家を持ったらピアノを。コーヒーはブラックで。」
そこまではいいとしても、何でみんな横一列にそれを信仰するのか。
脳は動いているのか。

ちょっと違うが、似たような事例として「原爆」がある。
オレは自分が広島県人なので、話題になることはなくはない。
広島県人の間でそういう話題になった時、ふと疑問を感じることがある。

オレは広島県人だけど、「広島市民」じゃない。
原爆についての実感が全くない。
両親にも親戚にも被害にあった人はいない。
父親は長崎出身で原爆手帳も持っているが、ぎりぎり放射能が届くであろう範囲に入っていたからで、戦後のどさくさにまぎれて取ったとしか思えないほど健康そのもの。
という感じで、ほとんど意識としては他県人と同じである。

もちろん「原爆はよくない」とか、そんなことは百も承知だ。
そんなこと世界中の人が知ってる。
オレの原爆に対しての考えなんて、その程度だと思う。
それを「広島県人=原爆に対する意識が他県人よりも高い。」というのは当たらない。
高い人はどこにいても高いし、低い人はどこにいても低い気がする。
大体広島県人はこうあらねばならないなんて決まってるのか。
結局は「分からない」からたいそうな意見は持ってない。

このコーヒーと原爆にいえる共通点は「実感」だと思う。
「実感のないことは、どんなに教育されても分からない。」
同情はできる。それについて想像したり、考えを巡らせることもできる。
でもそこに実感はない。
偽善やどっかから借りてきた理論には、発言者の姿がない。
コーヒーは苦いし、キノコ雲はモノクロの彼方だ。

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